Clumsy…                          for St. Valentine's Day 2012





















生徒たちが出て行った後の教室で、スネイプ教授は珍しく教壇の前に立ったまま中々動こうとしなかった。いつもならやるべきこともない場所に愚図愚図と残ることなどない彼としては非常に不本意だったが仕方ない。これで今日の授業はすべて終了し、手許の教科書類もまとめ終えてしまったのに、“対策”が未だ練り切れていないのだ。

(絶対に、─── いる。)

生徒たちの大半が一旦それぞれの寮へ帰り、夕食までの間を思い思いに過ごすはずの時間、教師たちとて束の間休息を得ることのできる貴重なひと時だ。無論、スネイプ教授の場合は休憩をとるわけではなく、自室に戻ってもやらなければならないことややりたいことが山のようにあったのだが、それにしても無駄にできる時間でない点では同じことだった。だから、本当ならすぐにでもひと気のない教室など後にして、自室へ足早に歩いてゆきたいのだが───

そこに、100%の確率で先回りしているであろう人物のことを考えると、中々一歩を踏み出せない。

── 先生!来週は、ヴァレンタインデーですねっ!

── 先生。明日はいよいよ、ヴァレンタインデーですよ。

── せんせ…今日はヴァレンタインデーだね…

(ええい、しつこく言われなくとも分っているっ!!)

そう、分っている。そもそも女神の祭日がどうの、ローマ帝国の馬鹿馬鹿しい法律と聖職者の反逆行為がどうのという、世間では愛の誓いの日、などと呼ばれる日が今日だということくらい、スネイプ教授とて一般常識として知っているし、それにかこつけて自分が何を要求されているのかも理解している。

だが、しかし。

(私に、花束やキャンディボックスを抱えて愛を囁け、と……?)

眩暈がする。
寒気だってする。

自分自身でさえそうなのだから、他の誰かが知ったら気絶するかもしれない。ただひとり、期待に満ち溢れているあの生徒を除けば。

(ああ、なんと厄介な…)

意にそぐわぬ、馬鹿馬鹿しい、──と冷たくあしらえばよさそうなものだが、そういう態度がかえって“彼”の闘志に火をつけるのが容易く想像できるだけに、それも考えものだ。

手許にプレゼントらしきものを用意していない、というのは言い訳として通用するだろうか。いや、無駄だ。

他の誰でもないスネイプ教授が、週末の、生徒でごった返すホグズミードで花束だのキャンディボックスだのを購入できるわけもないが、何しろ超一流の魔法使いなのだからそれくらいのものを用意できないはずがないと彼も思っているに違いない。第一、プレゼントがあろうがあるまいが、そんなことは最終的には関係ないのだ。

── 愛してる、って言って欲しいです。

要するにそれが彼の目的であり、そして今現在スネイプ教授を教室から立ち去ることさえ逡巡させるほどの難題だった。

── 難しい薬の名前も、ややこしい呪文も、すらすら言えるのに、どうしてそれくらいの簡単な言葉を言えないんですか。

どうして──、と彼は言うが。

(どうしてもこうしても、私は“スネイプ教授”なのだ。)

そう、それが全ての理由でいいではないか。青春真っただ中の若き日にさえ言えなかった言葉を、どうしてホグワーツ随一の強面薬学教授が口にできよう。大体、どんな顔をしてそんなこっ恥ずかしいセリフを言えというのだ。通年不機嫌の嵐が吹き荒れているのが当たり前、憂鬱と苦悩と厳格とをストレートに表現した手本のようなこの顔に、甘ったるい言葉が似合うわけがない。ホグワーツ中の──いや、スネイプ教授を知る魔法界の全ての人がそう思うだろうに、こちらこそ『どうして?』だ。どうしてそんな似合わぬことを強要するのだ、あの少年は────

しかし、罰則を課せられた生徒でもあるまいし、薄暗くなった教室にいつまでも居残っているわけにはいかない。スネイプ教授はまさしく苦虫を噛み潰したような顔つきをして書籍類を脇に抱えて歩き出した。いつものように、ローブの裾を閃かせ、颯爽と、けれどいつもより僅かにゆっくりと。








やっぱり、いた。


固く閉ざされた地下室の扉の前に座り込んだ小さな影は、石の階段を降りる特徴的な足音を聞きとめるや否やぱっと立ち上がり、満面の笑顔を上に向けた。

「先生!随分遅かったですね!」

スネイプ教授はいつにも増して低い、唸るような声で「ああ」と短く返事をしたが、その歯切れの悪さなどハリーには一向に関係ないようだ。

「スネイプ先生、ハッピーヴァレンタイン!」

階段を降り切った教授の眼前に、すっと小さな箱が差し出される。可愛らしいピンクのリボンが結ばれたパッケージ。それは尋ねるまでもなく、ヴァレンタインの贈りものだろう。そんな分り切ったものよりも、教授の視線はそれを差し出す細い指に注がれた。

「…一体、いつからここにいるのかね。」

「授業が終わってすぐからです。」

爪の先まで真っ白くなった指は触れなくてもその冷たさが分る。出直すなり、箱を置いて帰るなり、何か思いつかなかったのか、と呆れる一方で、微かな罪悪感がスネイプ教授の眉間の皺を深くする。

「先生?これ、受け取ってください。」

「…うむ。」

手を伸ばし、箱と一緒に冷え切った指を包みこむのが精一杯だった。だが、それでもハリーはスネイプ教授がそうしてくれたことが嬉しくて堪らないというように瞳を輝かせ、ほんのりと頬を染める。そんな顔をされては凍えた指を離せなくなるではないか。自分の手もさほど温かくはないだろうが少なくとも石に囲まれた空間の冷気にこれ以上晒されるのは防いでやれる。

「…スネイプ先生。」

「なんだ。」

「好き、です。」

「…ああ。」

きっと、ここで普通の男なら、私もだ、と応えて抱きしめて、そして恋人の望む通りに愛の言葉を囁くものなのだろう。だが、そんなことをさらっと成し遂げられるくらいなら、“セブルス・スネイプ”などやっていない。

「ポッター。」

「はい。」

期待を込めた眼差しが微かに揺れる。

── I love you

たったそれだけの言葉が中々貰えないもどかしさだろう。
たったそれだけの言葉を告げられない己のもどかしさと同じくらいの。

「…もうすぐ夕食の時間だ。」

「…先生…」

期待が落胆に変わる瞬間がくっきりと見えるのは、ハリーの表情が豊かだからか、自分がこの少年の心模様を逐一判別できるほどに囚われてしまっているからなのか。

スネイプ教授は他に誰もいないと分っていながら、まるで命に関わる機密でも告げるかのようなごくごく低い声で囁いた。

「夜───もう一度来たまえ。」

「え…?!いいんですか?!」

なんとまあ、よくもころころと表情が変わるものだ。落胆は再び希望に塗り替えられ、緑の瞳はスネイプ教授の顔を映してきらりと潤んだ。教授はそっと息をつき、目を伏せた。

(…私はなんと愚かなのだ…夜に持ち越せばハードルが上がるだけではないか…)

鋭利な頭脳と冷静沈着を誇る自分がなんたる醜態だ、と思うが仕方ない。最近、何事も器用にこなす優秀で冷徹な魔法使いセブルス・スネイプの、存外不器用な本質に気付いてしまったのだ。自分自身で。

「くれぐれも他の者に見咎められぬように。」

「分ってます!絶対、大丈夫ですから!」

寒さにかじかんでいたはずの手足をものともせず、羽根が生えたように軽やかに螺旋階段を昇ってゆく後ろ姿に、スネイプ教授は小さな溜息と、それよりさらにささやかな笑みを零した。








大広間では夕食の間中、つとめてグリフィンドールの席を見ないようにしよう、と決めていた教授だが、それには思ったほどの努力を要しなかった。年に一度のヴァレンタインデーとあって、気もそぞろな生徒たちは普段よりも姦しく、落ちつきなく、日頃行儀がいいはずのスリザリンでさえ、やれ食器をひっくり返したの、誰それがローブの裾をふんずけて転んだの、スネイプ教授が睨みをきかせなければならない事態がひっきりなしに起こっていたからだ。

── 浮足立ってますなあ。まあ、若さの特権というやつでしょうな。

── 思い出しますよ、学生の時分を。いや、高見の見物も中々面白い。

彼らの様子を見て、教授席ではそんな会話も密やかに交わされていた。無論、スネイプ教授はそこには口を挟まないし、聞こえないふりを貫いた。高見の見物は面白いかもしれないが、当事者はそんなに呑気に構えてはいられないのだ。この席にいながらにしてあの熱病のような若者たちと同じ喧騒にわが身を置いているなどと、他の教師には死んでも知られるわけにはいかない。しかも、大広間を埋め尽くす全校生徒の中で間違いなく最も名の売れた少年が、その相手だなど───。

だから、平静を保ち、寮監として担当の生徒たちを無言の威圧で鎮め、普段よりも更に味気ないと感じる夕食を終えた時には教授はすっかり疲労していた。

それでも、部屋に戻った教授は日課通りに明日の授業の準備をしようと調合用具を手に取った。

(我がスリザリンですらあの様子では、明日はまともな授業にならんな。)

長年の経験から、今夜は各寮で門限破りが多発し、消灯時刻もあってないようなものだと分る。そして翌朝の彼らときたら夢見心地でぼんやりする者、傷心に項垂れる者、やけに元気をアピールする者、目と目を見交わしてはくすくす笑い合う二人組───、と詳細を追及せずとも何が起きたか手に取るように分る有り様で、まともに授業を受ける生徒の方をむしろ心配してしまうくらいなのだ。そこまで予測できるからには本来、今夜は見廻りでもしてせめて自寮の生徒たちの取り締まりくらいはするべきだ。

するべき、なのだが。

(…私なら深夜寮を抜けだす不届き者は絶対に見逃さん。)

── マクゴナガルはどうだろう…?などと考えてしまっている時点で、すでに今夜のスネイプ教授はもうあの小童どもと同じレベルだ。

教授は取りあげたばかりのフラスコを再び元へ戻すという実に無意味な行動を自分がとっている事にも気付かぬまま、深く嘆息した。

「先生?」

遠慮がちな声と共に、ドアがノックされたのはその時だった。

(…ああ…もう来たか…)

もう来たか、という感想にはいくつか理由がある。ハリーが来る前に明日の支度を終えたかったし、場合によってはそれでも一応寮へ顔を出して釘を刺しておこうかとも思っていたし、それに何より─── 心の準備をしたかった。

「入りたまえ。」

いや、もう明日の支度はいい。寮生に一言『消灯時刻を守らぬ者は明日罰則を課す』と告げるのも自分が他寮の生徒を夜に呼びだしていたのでは言いづらいことこの上ないのだから、ここは黙認するしかない。

しかし。
心の準備は…。

「えへへ。待ちきれなくて急いで来ちゃいました。」

ハリーの方は準備万端らしい。
透明マントを羽織って来たのは、今はまだ消灯時刻までに間のある早い時刻だが帰りは深夜か、ひょっとして早朝か、と予測しての事だろう。スネイプ教授から例の一言を引き出すのにそれだけの時間がかかると踏んだのかもしれないし、そうではなくてもう少し違う想定なのかもしれない。どちらも、正解といえば正解だろうけれど。

「いい加減、生首だけで登場するのは遠慮して頂きたいものだ。さっさと入ってドアを閉めたまえ。」

生首、と言われてようやくマントから顔を出しただけの状態に気付いたハリーが急いでマントをとり、言われた通りにドアを閉める。スネイプ教授はおもむろに杖を取り出してそのドアへ魔法をかけた。



それが、恋人の時間の始まりの合図。



そうと承知しているハリーは僅か数歩の距離を駆けよって、スネイプ教授に思い切り抱きついた。

「先生、逢いたかった。」

「…つい先刻まで顔を見ていたはずだ。」

「先生珍しくスリザリンに向かってスゴイ怖い顔してたね。」

「日頃優秀な彼らがどこかの野蛮な寮生たちと同じような無作法をしていたのでな。」

「だって今日はヴァレンタインデーだもん。さすがの陰険スリザリンだって今日くらいはうきうきしても仕方ないと思うケド。」

「ほう。おまえが彼らの肩を持つとは、珍しいこともあるものだ。」

「だから、それだけ特別な日だってことだよ、先生。」

恋人の時間。
ハリーの言葉から堅苦しい“Sir”の登場する頻度が減る時間。
普段と変わらぬ物言いのスネイプ教授の言葉も、ほんの少しだけ、甘くなる時間。

抱きついたままの小さな体を引き離すのも、決して邪険ではなく、そこにある想いを壊さぬように気遣う優しい仕草になっていることに教授自身も気付いていた。

「ポッター。その、ヴァレンタインの贈り物のことだが…」

「贈り物はいりません。だって先生がホグズミードでそんな買い物できるとは思ってないもの。魔法でものすごい薔薇の花束を出してくれたとしても、それを飾っておけないんだし…第一、先生に花束もキャンディボックスも似合わないでしょう?」

「…やはりな。」

「だから。」

分っていたことだ。
たった一言。

愛しい恋人が他の何もいらない、ただその一言を、と望んでいるのだから、言ってやればいい。
嘘でも、まやかしでもない、自分自身の本心を言葉にするのに何を戸惑うことがある。
だが真正面から見上げられて、やたらに喉が渇く。ひりひりと痛いくらいに、だ。

「…ねえ、先生…。お願い。一度でいいから。」

「言わなくとも…分っていると思っていたが、なぜそんなに聞きたがる?」

「分ってはいるけど…でも…僕、先生の声が好きだから…」

「声?」

「二人きりの時はもちろんだけど、怒られてる時でさえ、素敵だなぁって思っちゃうんです。だからその声で、言ってくれたら…どんな甘いお菓子だって敵わないくらい、幸せな気持ちになれるんだろうなって…」

「……」

「あ、呆れてる?!それとも…あ、分った!声が聞きたいだけならとりあえず言えばいいって思ったんでしょう?!お芝居か何かのセリフみたいに、適当にっ……って……」

喚きだしたハリーの声はスネイプ教授の胸に抱きしめられたせいで途切れ、瞬間、静寂が室内を支配した。

「ばか者が。おまえの“分った”は全くもってアテにならん。」

「…先生…?」

最初に捉えられたのは多分、あの惨劇の夜だっただろう。
自分の失ったものも、背負わされた宿命も、何も知らずにただひたすら無垢だったあの時の瞳。
まさしく愛と憎悪との間に生まれた小さな命を、この手で守りたいのかそれとも摘みとりたいのか、自分の本音が分らなかった。それは、ダンブルドアによって使命を与えられたあとも、愛するべきか憎むべきかという問題になってずっと心の奥深くに棲みついていた。

ハリーがホグワーツに入学してきた時もまだ答えは出せず、ただ使命感で陰から手を差し伸べ、面と向かえば辛く当たり、自分はこの先も己の意思を明確にせぬままただ粛々と“任務”を果たすだけでいいのかと思いもした。

だが、やたらに推進力のあるこの少年はとにかく片時も目が離せないほどで、気がつけば視界にはいつも彼がいたし、そしていつの間にか彼も背後にスネイプ教授が常に佇んでいる事に特別な安堵をおぼえるようになっていったことは見つめ続けるうちに理解できたし、本人からも聞いた。

そして長い時をかけて少しずつ何かを削ぎ落とし、何かを見極めて、今こうしている。
教師と生徒という立場では罪になると知りながらも、互いの想いを重ね、肌を合わせた。

もう、取り繕うことなど何も残っていない。
告げてやろう、そう決めた

「ハリー。」

ぴくり、と腕の中で華奢な背中に緊張が走るのが分った。

「ハリー…」

決して手離せはしないと思うその体を一際強く抱きしめて。

「─── おまえを愛している。ハリー。」






低く、真摯なその言葉が、微かな余韻の尾を引いて消えてから、すぐそこにあった耳へキスを贈る。
ハリーの体は大きく震えて、胸に押しつけた唇から嗚咽のような吐息が堪え切れずに漏れだした。



「…泣くことはあるまい。」

今度はクセのある柔らかな髪へキスを。


「だって……せん…せ……」

広い背中を締めつけるように回された腕に、指に、必死な力がこもり、それに応えて同じだけ強く抱き締めれば、きっちりと着込んだ互いの衣服を通して熱が伝わった。

「……どうしよ……う……涙、止まんな………」

「前言撤回だ。いくらでも泣くといい。」

「せんせ……」

「ただし、ベッドでだ。」

言うのと同時に軽々とハリーを抱き上げて、スネイプ教授はそっと笑った。




明日、一番授業に身が入らないのは、ホグワーツ中で最も厳しい薬学教授と最も有名な英雄であろうことは、もう間違いない。



























end

突発的に書きたくなるSHですが、その割には教授がもたもたしてるだけっていう…
ホントはこの続きの方こそ書きたかったわけですがそれはまたいつか───??








gin's works @ 2012.02.14up