I'm dreaming in your arms














心が晴れない理由はいくつも考えられた。
“勝利”の代償に失ったたくさんの大切なものたち。
その中に“命”が含まれる以上、悲しみが深く根を下ろし心を苛むのは当たり前だ。
戻らない笑顔や、笑い声。
同じ数だけ生まれた孤独や、苦悩。
どれもが、痛ましくてやるせなくて、つらい。

だから、そのうちのどれが一番胸を締め付けるのかなんて、考えるだけ無駄なような気もした。
気も、したけれど。



パトローナス。

“あの子を・・・”

“あの子を・・・!”

あの、美しいパトローナス────






「・・・先生・・・」


ハリーは震える両手を自分の目でしっかりと見た。
あの日、あの人の血に染まった、この両手。


「最期まで・・・誰も彼も騙して・・・・」


憎らしい。
本当に、憎らしい。
自分も、他の生徒や教師たちも、ヴォルデモートも、みんな彼に騙された。
ある意味ではダンブルドアでさえ、騙されたのかもしれない。
彼は、自分の想い以外のすべてを騙し、偽り、その為に向けられることになった悪意も殺意も全部自分の身に受けて、闇と孤独に包まれる生涯を選んだのだ。
そして、自らは何も語らぬまま────    逝った。


「ずるいよ・・・・」


ずっと守っていたのだと、それが真実だったのだと、せめてハリーにだけは教えてくれたなら、最期の瞬間に感謝くらい伝えられたかもしれないのに。
それすらも頑なに拒んで、彼は自分自身だけを貫き通した。
汚名を雪ぐこともせず、見返りを求めることもせず。
ハリーに気付く暇も、何かを伝えるチャンスもくれないで、ここへ置き去りにして。


それが、ハリーの心の一番深い所に刺さった棘なのだと、ハリー本人が意識するのにはかなりの時間を要した。遺された者たちの手で学校が修復され、死者たちが埋葬され、見た目には以前の日常が戻るまでにかかったのと同じくらいの時間だ。
気がつくと、ハリーは一つの墓標の前にいることが多かった。
他の墓の前に手向けられた花が枯れても、朽ちても、その墓だけはいつも瑞々しい花々に囲まれている。それほど頻繁にハリーはここへきては、花を供えているのだ。生前の彼にはとても似合うとは思えないような可憐な花を。

でも、いくら花を手向けても、本当に捧げたいものは彼には届かない。
彼がいなくなってから気付いたことがたくさんある。
言いたいことも、後から後から溢れてくる。
その数だけ、こうして花を摘んではみるものの、やはり同じ数だけ虚しさだけが積もってゆく───





「ハリー。」

呼ばれたのと同時に、視界の端に黒衣の裾が見え、ハリーは思わずはっと振り返った。

「っ・・・!・・・・あ・・マクゴナガル先生・・・」

そうだ。黒衣は何も彼だけが着ていたわけではない、と気付き、自分の思考の短絡加減に唇の端が苦く歪む。
黒衣を翻し、颯爽と歩いていたあのひとは、今、目の前のこの墓石の下に眠っているではないか。

「いいえ。そこではありませんよ。」

「・・・え?」

弾かれるように目をあげると、老魔女は感情の読みとりにくい目を僅かに細め、ごく淡く笑った。

「・・・何が・・・ここではないんですか・・・?」

「彼の、眠っている場所です。」

「・・・それは、どういう・・・」

「ついていらっしゃい。」

そう言うと、マクゴナガルはくるりと向きを変え、いつものように毅然とした足取りで歩きだした。



一体、彼女が何の話をしていて、ハリーをどこへ連れて行こうとしているのか、明瞭な答えはなかったけれど、ハリーは何かに急きたてられる想いで彼女の後を追った。
ざくざくと下草を踏む音、それ以外何も聞こえはしない。
凄惨な闘いが繰り広げられた事を示すものは殆ど残っておらず、あれから新しく芽吹いた草にはその日の記憶もないだろう。
だが、その建物が見えた途端、ハリーの足は竦んで歩みを停めた。

記憶。




その建物にまつわる記憶は、ハリーの心臓を鋭い爪で掻き毟る。

「・・・先生。」

近づきたくない、そう、本能が騒ぐ。
あの人の血が流された場所。
あの人の命が、尽きた場所。



「ハリー。そろそろ、あなたに交代する時機なのです。」

「・・・何を交代するんですか・・・」

あそこに何があるというのだろう。


(あそこにあるのは・・・悲しみだけだ・・・)


ハリーはボート小屋から目を逸らし、ぎゅっと唇を噛みしめた。
完璧に欺かれていた自分の愚かさを正視しろというのか。それとも、まだ騙されているマクゴナガルがあの場所を“忌まわしいもの”としてハリーに何らかの後始末をさせようというのか。
どちらもごめんだった。
あの場所へ足を踏み入れるなんて、今まで受けてきたどんな罰則よりも辛い。
あの人を永遠に失った、と言う事実だけで充分すぎるほどの苦痛なのに。

だが、マクゴナガルはそんなハリーの想いになど気付かないのか、淡々と歩を進め、あの日のまま冷たい静寂に包まれたボート小屋へ近づき、扉へ手を掛けた。

「ハリー。あの日の夜明け前──あなたがヴォルデモートとの最後の闘いに挑む前。私はパトローナスの導きでここへ来たのです。」

「パトローナス・・・?」

「ええ。それは美しい、牝鹿のね。」

ひゅっとハリーの喉が鳴る。
美しい、牝鹿のパトローナス──────

「そしてここで私は────見つけたのですよ。」

重い音が微かに鳴り、禁断の場所の扉が開いた。
薄暗い空間に射し込む一条の光はやけに白っぽく見え、そして、その光の先に────

「・・・彼を。」






まさか、と思った。


薄闇に浮かびあがるような純白。
白いベッドの上に、白いシャツを着て横たわるその人が、他の誰であれあの人のわけはない、と。
















「・・・扉を閉めてもらえませんかな。眩しすぎる。」




あの人の、わけがない────

低く静かな声を捉える聴覚と、否定する自分の声が響く心とが、せめぎ合う。













鼓動が止まってしまったのか、それとも激しすぎてついてゆけないのか。
気がつくと、マクゴナガルは何も言わずにそこから消えていた。

ちゃぷん、と時折水音がする。
桟橋の方から吹いてくる風が、気まぐれにカーテンを揺らす。
そういう情景はちゃんと識別できるのに、ハリー自身の時間だけが停止していた。

「・・・いつまでもそんなところに立っていないで、座ったらどうかね、ポッター。」

馴染み深いその口調。
でも、これは夢なのかもしれない。
実際に、あれから何度も本当は彼が死んでなどいなかった、という夢を見た。
生きていたなら、何から伝えよう、最初にどう話しかけよう、どんな顔をして・・・・そう、浮き立つような夢だ。

そして目覚める度に、絶望を味わった。

「夢なら・・・醒める前に言ってもいいですか・・・?」

今度もまた目覚めた時、胸がつぶれるように痛むかもしれないけれど、どうせもう叶わない望みなら、こうして話ができる特別な夢に託してしまってもいいはずだ。

ハリーは、ゆらり、と一歩踏み出し、ベッドへ近づいた。

「今更何を言おうと構わんが・・・後から後悔するようなことは言わぬ方がいい。」

「後悔ならさんざんしました。」

「そうか。だが・・・・・」

「先生の馬鹿!!!」


あんなに、来る日も来る日も、やり場のないたくさんの言葉を抱えて苦しんできたというのに、最初に零れた言葉はそれだった。


「・・・ほう。これはまた、随分思い切ったご挨拶ですな・・・」

「どうせ夢なんだし・・!あんな・・・あんな真実、一方的に知らされて・・知ってしまったのにもうあなたに何も言えなくて・・・!どれだけ僕が苦しかったか・・・違う、そうじゃない。どうして、あなたはあんな生き方を選んだんですか?!どうして、たったひとりで、何もかも・・・・っ」

「・・・支離滅裂だ。」

「分ってます!でも夢なんだから仕方ないでしょう?!」

「夢ならばもう少し静かにできないものかね。安眠妨害だとは思わんのか。」

「僕の夢なんだから構わないです!」

「何故君の夢だと言いきれる?」

「・・・・え?」

「これは私の夢かもしれないではないか。君がそんな風に泣くのを見るなんて、現実とは思えん。」

「な・・・泣いてなんか・・・・」

いない、と続けようとした言葉は力なく途切れた。
すい、と伸ばされた優雅な指先が、ハリーの頬に触れたからだ。
少し冷たくて硬い指────
間違いなく、その感触があった。

「泣いていない?・・・では、これは何なのかね?」

その指が、ゆっくりと頬から顎へ滑ってゆき、温い液体を絡め取って離れた瞬間、彼はごく淡く、微笑った。

「あ・・・・」





きっと、夢だから。




そうに違いない。
夢だから、何か意思の力とは別のものが、背中を押したのだ。





ハリーはその人の胸の中へ倒れるようにして飛び込んだ。










(ああ・・・僕のか、先生のかは知らないけど・・・間違いなく夢の中なんだ・・・)

一度気付いてしまうと、涙はいくらでも溢れてきて、頬を伝い、そして彼の胸を濡らす。

もし、これが現実で、本当に彼が生きていて、明日からまたあの日々の続きが始まるのなら、どれくらいの減点と罰則を言い渡されるのだろう。
あのスネイプ教授に向かって“馬鹿!!”と言い放ち、あろうことかこうやって抱きつくなんて、気が狂ったと思われるだろうか。



でも、夢なのだから。

その証拠に、彼の腕がそうっとハリーの背中を包んでいる。
こんなことを、この人がするわけがない。





「先生・・・・」

「今度は何だね。」

もう二度とこんな夢は見られないだろう。
だから。


「・・・すみません。バカなのは僕の方でした・・・」

「そんなことは分っている。」

「先生は完璧に僕を騙していたけど・・・でもあれ以来、ひとつひとつ、思い出してたんです。」

「また似合わんことを。」

「先生がいた場所、先生が僕に言った言葉、先生の表情、先生のしたこと・・・全部・・・・」

「だが魔法薬学の授業内容は思い出していないのだろうな。」

「そんなことないです。先生が魔法薬を作る時の手つきとか、解説してる時の声とか、全部思い出してました。僕、自分で思ってたより、先生のこと、見てたんです・・・・・」

「それは光栄ですな。」

「何にも気付いてなかったのに、ずっと先生を見てて・・・先生のいる世界が僕の当たり前で・・・なのに、もう先生に会えないんだって思ったら、胸が苦しくて・・・・」




ハリーはぎゅっと力を込めて精一杯に彼にしがみついた。
また消えてしまう前に、伝えておきたい言葉が、胸の深いところからじわじわとせりあがってくる。




「・・・スネイプ先生・・・」



消えない傷を負ったまま光を遠ざけて生きてきた人へ。
何も言わず、ただひたすら見守り続けてくれた人へ。
他の誰もが諦めていたこの命を、ただひとり最後まで信じてくれた人へ。

自分の命を投げ出してまで、ハリーが生きることに賭けてくれた人へ。



多すぎてとてもひとつにはまとまらない言いたかった言葉が、渦を巻くように胸の中で木霊する。




ごめんなさい───




ありがとう───




あなたを───














「・・・愛しています・・・」




















ぐい、と抱きしめられて、ハリーは思わず音を立てて息を吸い込んだ。

「最初に、後から後悔するようなことは言わぬ方がいい、と申し上げたが・・・」

低い静かな声は、押し当てた胸から直接響く。

「・・・後悔しない、ということかね。」

あまりに心地よい声だったせいか、それとも強く抱かれて呼吸が圧迫されているせいか、頭がぼんやりして声が出せない。ああ、そもそも夢だからなのか、と曖昧な意識の中で思い至り、ハリーは甘えるようにこくん、とうなずいた。

「夢ならばなかったことにもできるが、もしこれが現実でもやはり後悔はしないか?」

「・・・しません。」

ごくごく小さな声で囁くように答えると、耳元で彼が微かに笑う気配がした。

「では、教えてやろう。我輩は叶わぬ恋に悩む教え子の夢に登場して束の間の慰めを与えるような親切な魔法使いではない。」

「・・・・?!」

それは、唐突にリアルを感じさせる、いつもの、あの、意地悪な薬学教授の口調だった。

ハリーがはっと顔をあげると、すぐ近くにある彼の瞳は、生き生きとした色味を帯び、面白そうに笑っていて───

「我輩は──“地獄の底から蘇って言質を取ったからにはもはや遠慮するつもりなど更々ない”という、意地の悪い魔法使いだ。」

「え・・・」

「残念ながら、これは夢ではないのだよ───ハリー・・・」






夢ではない、と宣言された事に驚くべきか。
セブルス・スネイプに“ハリー”と呼ばれたことに驚くべきなのか。



それとも。




やんわりと引き寄せられて、優しく重なった唇の温もりに──── ?







重ねあうだけの、ただそれだけの唇の接触。
でもそれは、心と一緒に体中を震わせる。






「・・・やっぱり・・・夢、でしょう・・・?」


僅かに離れたその隙間に、ハリーは吐息と区別のつかないほどの小さな囁きを落す。
それを飲み込むかのように、彼はもう一度、今度はほんの少しだけ開いた唇でハリーの唇に触れ、ちゅっと可愛らしい音を立てた。


「なんとも頑固な英雄殿だ。頬でもつねってやるべきか。」

「だって・・・先生とキスするなんて・・・」

「悪夢かね?」

「いいえ!・・・・いいえ・・・・」


そして、今度はハリーから、彼にキスをした。


「・・・もう、悪夢はたくさんです・・・」

あなたを失う悪夢なんて───




声には出さなかったけれど、ひょっとしたら頬から伝い落ちて唇を濡らしていた涙が、彼に伝えたかもしれない。
彼の涙が、ハリーに伝えてくれたように。

長い時間をかけて、ようやく互いの心に触れたこの瞬間が、もし夢なのだとしても、この想いこそが真実だとはっきり言える。










あなたが守り抜いてくれたこの命のすべてで



あなたを愛しているのだと。






















end








gin's works @ 2011.08.17up